MIXを依頼するとき、多くの方がこう書きます。「この曲みたいな感じでお願いします」——気持ちはとてもよく分かります。自分が思い描いている音を言葉にするのは難しく、曲を1つ挙げるのがいちばん手っ取り早いからです。
ところが、これだけでは意外と伝わりません。届いた音源を聴いて「思っていたのと違う」となる原因の多くは、技術ではなく「その曲のどこを指しているのか」が共有されていなかったことにあります。リファレンス曲を1曲挙げた時点で、そこには声質・音量感・空間の広さ・音圧・歌い方・オケの厚み——少なくとも6種類以上の情報が同時に含まれてしまうからです。
この記事では、リファレンス曲を「ゴール」ではなく「共通の物差し」として使う方法をまとめます。選び方の条件、ふわっとした言葉を音の言葉に置き換える早見表、そしてリファレンスでは近づけられない領域——ここを先にお伝えしておくことが、いちばん誠実だと考えています。
先に結論をお伝えします。リファレンス曲の役割は、同じ音を作ることではありません。「同じ方向を向いているかどうか」を、お互いが同じ基準で確かめられるようにすることです。
たとえば「ボーカルをもう少し前に出してください」という一言は、送る側と受け取る側で想像している量がまったく違うことがあります。1dBのつもりで書いた人と、3dBだと受け取った人では、結果が別物になります。ここにリファレンスが1つあると、「この曲くらいの前の出方」という共通の目盛りができます。
逆に言えば、リファレンスが果たせるのはここまでです。物差しであって、設計図ではありません。この違いを最初に共有しておくだけで、やりとりの満足度はかなり変わります。
理由はシンプルで、1曲の中に、判断が必要な項目が同時にいくつも入っているからです。市販曲を1曲指定したとき、そこには最低でも次の情報が含まれています。
| リファレンス曲に含まれる情報 | MIXで調整できる? |
|---|---|
| ボーカルとオケの音量比(声の近さ) | ◎ 調整できる |
| 声の明るさ・こもり具合(帯域バランス) | ◎ 調整できる |
| 残響の量と広さ(空間の作り方) | ◎ 調整できる |
| 全体の音圧・迫力 | ○ ある程度調整できる |
| ハモリやコーラスの厚み | △ 録っている素材の範囲で |
| オケそのものの構成・楽器の数 | × 変えられない |
| 歌声そのものの質感・太さ | × 変えられない |
| 歌い方・リズムの取り方・表現 | × 変えられない |
依頼する側が「この曲みたい」と言うとき、頭の中にあるのはたいてい上の2〜3項目です。ところが受け取る側には、どれを指しているのかが分かりません。結果として、いちばん目立つ項目(多くは音圧や空間)に寄せた仕上がりが返ってきます。これが「悪くはないけど、思っていたのと違う」の正体です。
市販曲やプロの歌い手さんの音源は、歌唱・編曲・録音環境・MIX・マスタリングがすべて積み上がった状態です。MIXが担当しているのは、そのうちの一部にすぎません。
同じ設定をそのまま自分の音源に適用しても、素材が違えば結果は変わります。この「素材の差」については歌が下手でもMIXで上手く聞こえる?直せること・直せないことの境界線で詳しく扱っています。リファレンスを添える前に一度読んでおくと、期待値の置き場所が決めやすくなります。
では、どういう曲を選ぶと伝わりやすいのか。現場の感覚では、次の5つを満たしているほど精度が上がります。
バラードのオケに対してEDMのリファレンスを添えると、どの要素を採用すべきかの判断が割れます。近いほど、話が早くなります。曲調ごとのMIXの考え方の違いは曲調別MIXの違いにまとめています。
低い男声の音源をリファレンスに、高い女声の歌を近づけることはできません。帯域の置き場所そのものが違うためです。自分の声に近い人の音源のほうが、現実的な目標になります。自分の声域が分からない場合は音域チェッカーで先に測っておくと選びやすくなります。
ここがいちばん大事です。「なんとなく好き」で選んだ曲は、相手にも「なんとなく」しか伝わりません。1つでいいので「サビの広がり方が好き」「息づかいが近くて生々しいのが好き」と言えるかを確認してください。
時代によって音の作り方の流行は変わります。とくに音圧が極端に高い時期の曲をリファレンスにすると、いまの配信環境では意図と逆の結果になることがあります(後述)。
手元にしかない音源だと、相手が同じものを聴けません。URLで共有できる曲を選ぶと確実です。音源ファイルそのものを送る必要はありません(権利の面でも避けたほうが無難です)。
リファレンス曲と一緒に、「その曲のどこが好きか」を音の言葉に置き換えて添えると、精度が一段上がります。よく使われる表現を、現場でどう受け取られるかと一緒に並べました。
| よく使われる言葉 | 伝わりやすい言い換え | 関連する処理 |
|---|---|---|
| エモい | 残響を長めに、声をやや遠くに置いてほしい/逆に息づかいを近くで聴かせたい | リバーブ・音量比 |
| かっこよく | 低音の芯を強めに、サビで前に出してほしい | EQ・音量オートメーション |
| プロっぽく | Aメロとサビの音量差を揃えて、全体の迫力を上げてほしい | コンプ・マスタリング |
| 声を目立たせたい | オケより1〜2dB前に。または声の帯域だけオケを少し譲ってほしい | 音量比・EQ |
| ナチュラルに | ピッチ補正を機械的にしすぎず、揺れを残してほしい | ピッチ補正 |
| スッキリさせたい | 低音のもたつきを削って、こもりを取ってほしい | EQ(ローカット) |
| 厚みがほしい | サビだけダブリングやハモリを足して広げてほしい | ダブリング・ハモリ |
| 音が small(小さく聞こえる) | 音量ではなく「迫力」が足りない。音圧の詰め方を上げてほしい | マスタリング |
| 刺さる感じを取りたい | サ行やシンバルの帯域を抑えてほしい | ディエッサー・EQ |
| ライブっぽく | 残響を広く、声をやや後ろに。オケとの一体感を優先してほしい | リバーブ・音量比 |
それぞれの処理が実際に何をしているのかは、声が埋もれる・こもる原因と直し方(EQ早見表つき)、コンプレッサーとは?音量ムラを揃える仕組み、リバーブの深さの決め方、サ行が耳に刺さる原因と直し方、ダブリングで声に厚みを出す方法、自然なピッチ補正のコツで個別に解説しています。言葉を1つでも増やしておくと、修正のやりとりが目に見えて減ります。
ここがこの記事の核です。リファレンスを添えても近づかない領域があります。先に知っておくと、無駄な修正の往復を避けられます。
| リファレンスの要素 | 近づけられる? | 補足 |
|---|---|---|
| ボーカルの音量・前後の位置 | ◎ | いちばん伝わりやすく、いちばん効果が分かりやすい項目 |
| 声の明るさ・こもり具合 | ◎ | EQで調整可能。ただし元の録音の帯域が極端に偏っていると限界あり |
| 残響の量・空間の広さ | ◎ | 録音に部屋鳴りが入っている場合は、足せても引けない |
| Aメロとサビの音量差 | ◎ | コンプと音量調整で揃えられる |
| 全体の音圧・迫力 | ○ | マスタリングで近づく。ただし配信側の音量調整の影響を受ける |
| ハモリ・コーラスの厚み | △ | 録っていないパートは作れない。録り足しが必要 |
| オケの厚み・楽器の数 | × | 使っているオケが違えば、同じにはならない |
| 歌声そのものの質感・太さ | × | 別人の声にはできない。ここは録音・歌い方の領域 |
| 歌い方・リズムの取り方・表現 | × | MIXは音を整える工程で、歌唱を作り替える工程ではない |
| 録音時に入った部屋の響き・エアコン音 | △〜× | ある程度は減らせるが、完全には取れない |
「リファレンスに近づかない」と感じるとき、その差の多くは下3行にあります。MIXの設定ではなく、録音か歌い方に由来する差です。ここを設定で埋めようとすると、処理が深くなりすぎて不自然な仕上がりに向かってしまいます。
録音環境そのものを変えたい場合は、宅録の部屋の反響対策やマイクとの距離・角度の正解が近道です。歌い方に由来する差だと感じた場合は、高音の出し方やミックスボイスの出し方もあわせてご覧ください。
実務でいちばん機能するのが、項目ごとに別の曲を指定する方法です。1曲にすべてを背負わせないぶん、指しているものが明確になります。
・全体の雰囲気:A曲(落ち着いた広がりが好きです)
・ボーカルの近さ:B曲(息づかいが聞こえるくらい近いのが理想です)
・サビの迫力:C曲(サビだけ一段上がる感じにしたいです)
・避けたい方向:ケロケロした機械的なピッチ補正は避けたいです
「避けたい方向」を1行入れておくのが、地味ですがとても効きます。好みは人によって幅がありますが、「これは嫌だ」は外すべき範囲がはっきりするためです。
また、タイムスタンプを添えるのも有効です。「1分12秒あたりのサビの入りの、この広がり方」まで書ければ、解釈のズレはほとんど起きません。
【リファレンスについて】
・参考曲:(曲名/アーティスト名/配信リンク)
・その曲のどこが好きか:(例:サビの広がり方。声が埋もれずに、空間も広い感じ)
・とくに近づけたい点:(例:ボーカルの近さ。1分12秒あたりの距離感が理想です)
・逆に避けたい点:(例:機械的なピッチ補正、サ行が刺さる感じ)
・優先順位:(例:声の聞き取りやすさ > 音圧 > 空間の広さ)
・自分の音源の気になっている点:(例:Aメロが小さく、サビで飛び出します)
最後の「優先順位」の1行は、必ず入れておくことをおすすめします。MIXでは、両立しない要求が同時に来ることがあるからです。たとえば「声をもっと前に出したい」と「オケの迫力も上げたい」は、ある地点から先はトレードオフになります。優先順位が書いてあれば、そこで迷わず判断できます。
依頼文全体の型はMIX依頼の例文テンプレートに、送る音源の準備はMIX依頼時の音源の準備・書き出し設定とあわせてどうぞ。ファイル名の付け方はMIX依頼のファイル命名規則、受け渡しの方法はMIX音源の渡し方・ファイル便の使い方にまとめています。
これを守らないと、比較はほぼ意味を持ちません。人は音量が大きいほうを「良い音」だと感じます。市販曲は音圧が高く仕上げてあることが多いため、そのまま並べると自分の音源が必ず負けて聞こえます。体感の音量を揃えてから切り替えてください。
スマホのスピーカーで聴いたリファレンスと、ヘッドホンで聴いた自分の音源を比べても、差の原因が分かりません。ヘッドホン・イヤホンの選び方でも触れたとおり、「同じ条件で聴く」ことのほうが、機材の値段より効きます。あわせて、スマホのスピーカーなど実際に聴かれる環境でも確認しておくと安心です。
主要な配信サイトの多くは、再生時に曲ごとの音量を揃える仕組みを持っています。つまり音圧を上げても、再生される大きさは変わらないことがあります。上げすぎるとサビの抜けが減り、かえって迫力が落ちる場合もあります。この仕組みは配信で埋もれない音圧の話(-14 LUFSとラウドネスの基礎)と歌ってみたにマスタリングは必要?で詳しく扱っています。
リファレンスを用意する作業は、実は「自分が何を good だと思っているか」を自分で確かめる作業でもあります。好きな曲のどこが好きなのかを1行でも言葉にできた時点で、仕上がりの満足度はかなり上がります。逆にそこが曖昧なままだと、どんなに丁寧なMIXが返ってきても「なんか違う」が残りやすくなります。
そして、差の原因が録音や歌い方にあると分かったなら、そちらを直すほうが圧倒的に早い——これは毎回お伝えしていることですが、リファレンスの話でも同じです。
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リファレンスと自分の音源の差が「録音のほうにある」と感じた場合は、北池袋のレコーディングスタジオで一度録ってみるのも手です。部屋鳴りやマイク距離といった、MIXでは埋めきれない差がそもそも生まれません。声の出し方そのものを近づけたいという場合は、ボイストレーニングのほうが近道になります。
まずは自分の歌の現在地を確かめたい方は、声の音域チェッカーやBPM・キー判定などの無料ツールもどうぞ。リファレンス曲のキーと自分の音域を見比べると、「そもそもキーが合っていなかった」に気づけることがあります(キーの調べ方/キー変更の目安)。